この世は自分の生きがいを探しにきたことろこの世で仏に遭わねば生きがいもない

掲示板の言葉 Words of the bulletin board

伝道掲示板(寺報巻頭言に掲載)の言葉を紹介します。(各年の季節をクリックすると移動します)

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佛法に 明日ということはない 今日の尊さ 今日のありがたさ

曽我量深師/彰見寺だより 2007年春 157号 巻頭言に掲載

 大正・昭和の時代に生きた偉大なる念仏者、曽我量深師の言葉である。
 私たちは流れ去った過去の思い出をいつまでも追い続けているか、またはいまだ来ない未来にはかない夢を託しているのではないか。そのいずれにしても今を見る眼差しが欠けている。したがって生きていることの充実感を味わうことはできない。
 私たちの手が届くものは過ぎ去った過去でもなく、やがて来るであろう未来でもない。今、自分が向き合っているこの現実である。その充実にめざめることこそ肝要である。具体的には何であるか。「今日の尊さ 今日のありがたさ」に気付くことである。

生きんかな 本当に生きんかな ただ念仏して

竹部勝之進/彰見寺だより 2007年夏 158号 巻頭言に掲載

 生きながらにして「本当に生きる」とは、どういうことであろうか、と思索する。
「如来の本願は称名(しょうみょう)に顕(あらわ)る」との親鸞聖人のお言葉がある。すべてのものを救いたいという如来の真なる願いは、み名「南無阿弥陀仏」を称することにあるという。そこには救われた、すなわち「本当に生きる」という命が存在する。その命は、生活の中に念仏があるのではなく、念仏のただ中に真の生活がある。つまりは大いなる支えの中に我々の命がある。不安にかられ、暗闇の中にいる私たちに対して、「大丈夫ですよ。すべてを私にまかせて、迷わず進んでいらっしゃい」と、仏さまが歩む方向を示してくださっている生活がある。
「本当に生きるとはどういうことだろう」この問いを持つことこそが「ただ念仏する」へつながる大切な一歩となるのである。

いま 聞き  いま うなずき  いま 念仏申す

久保龍子/彰見寺だより 2007年秋 159号 巻頭言に掲載

 過去・現在・未来という時の流れの中、我々はいまを生きている。その中、どの一点に焦点をあてて生きているのであろうか。
 過去としてみよう。あの時はああだった、こうだった云々。それらはすべて通り過ぎてしまったことであって、今となっては過去をどう変えることも出来ない。それは愚痴でしかない。では未来としてみよう。未来といえば、なおさら、私たちの手の届かない、どうしてみようもない世界である。来るか来ないかすらはっきり確信できず、ただはかない夢を託すだけである。
 私たちが生きているのは過去でも未来でもない、「いま」である。「本願を信じ念仏申すほかない」と、「いま」聞いたからこそ、「いま」うなずき(信ずる)、「いま」念仏申しているのである。念仏申すということは、常に「いま」という時間をその根本に持っている。

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かけがえのない 自分の人生を そのまま 受け取れない 自分がいる

二階堂行邦/彰見寺だより 2007年冬 160号 巻頭言に掲載

「かけがえのない」とは代わるものがない、代えることが出来ないという意味である。私たちは常日頃、自分の人生を「かけがえのないもの」と認識しているであろうか。なかなか難しいことである。
 ところが、その私が、自分の人生を「かけがえのないもの」であったと認識し始めた。これは当たり前の人生が「かけがえのない人生」へとその第一歩を踏み出したということであり、それは大変なことなのである。
 しかもその「かけがえのない」自分の人生をそのまま受け取れない自分がいる。受け止められないと言いつつも、事実は受け止めているのである、否、受け止めざるを得ないのである。私(住職)は現在七十三歳である。もっと若くありたいとどれだけ願っても、この事実を変えることは出来ない。事実は受け止めているにもかかわらず、その事実をうなずくことが出来ないでいるのである。人間というものは何という矛盾した存在であることか。

言葉を超えた世界 たゞ 南无阿弥陀佛

彰見寺だより 2008年春 161号 巻頭言に掲載

 言葉に先立って意志が働く場合が多い。ところが自分の意志が率直に表現出来ているかと問われると、否と答えずにはいられないことが実に多い。
 景色や物を見て美しいと表現する。心から湧き上がる感動が言葉となって表現されることもあるが、相手に対する挨拶程度のことや、その場を繕うためのものであったりすることもある。とかく人間が発言すると、自分の色でそのものを着色してしまう。
 人間が着色していない以前の世界、そこにこそ、本当の世界があるのではないか。それがここで言う「言葉を超えた世界」である。南无阿弥陀仏と念仏申す世界は、人間の言葉を超えた、本当の世界の叫び声であり、人間としての生を頂いたからには、是非ともそこに到らせて頂かねばならない世界である。

人間に生まれたのは 如来の本願を 聞くためである

彰見寺だより 2008年夏 162号 巻頭言に掲載

 歩くという行為は歩く目標があるから歩ける。しかし、目標が無くとも歩けるではないか、例えば散歩はどうかと言うかもしれない。だがこれも散歩という目標を持っている。このように何事においても目標・目的を持つ時、初めて行為・行動が成り立つ。
 私たちは個人の意思を超えて人間として生まれ出た。「自分は何のためにこの世に誕生したのか」というこの問いは誰しも生涯に一度は抱く大切な疑問である。しかし、考えてもその解答が得られないまま、いつしか忘却の彼方に流し去ってしまっている。そういう生き方を流転というのかもしれない。
 自分が人間に生まれたのは、「如来の本願を聞くため」であったと念仏を喜ぶ人々は答えている。如来の本願とは仏の大悲心、南无阿弥陀仏のことである。その南无阿弥陀仏のいわれをよく聴聞して、この身に頂戴すること、そのことこそ自分がこの世に誕生したまことの意義である。自分は横道にそれてはいないか、心して尋ねてみなければならない。

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念佛をいただいて 生死を超える よろこびを知る

慧日院道生/彰見寺だより 2008年秋 163号 巻頭言に掲載

 人間の言葉は有限である。いつでもどこでも通用するというものではない。そして、人は時折言葉を失う場面にも出会う。そのような時、心の底からこみ上げてくる言葉を超えた言葉、南无阿弥陀仏。それは私たちが多くあの先達に導かれて今出遇(あ)っている言葉である。
「生死」、仏教ではこれを「しょうじ」と読む。生きることは苦しく、まして死ぬことも苦しい。生死の苦悩を超えること、それこそ人間にとって最大の関心事である。ある仏教者が「生きてよし、死んでよし」とその心情を吐露(とろ)された。人間にとっての最大の関心事を解決しえた、そのよろこびはどこからわきおこるのであろうか。人はいのちが全てであった時、それがこわされることの不安におびえる。しかし、いのちより大切なものがあると知った時、即ち無限なる阿弥陀仏と出遇った時、今いのちあることがもったいなく尊く思われてくる。

南无阿弥陀仏は 人生の 呼びかけである

慧日院道生/彰見寺だより 2008年冬 164号 巻頭言に掲載

「南无阿弥陀仏は人生の呼びかけである」
 お念仏の大先達である曽我量深(そがりょうじん)師の言葉である。呼びかけられて、はっと我が身を顧(かえり)みる。呼びかけられる事がないと、振り返るきっかけすら持たない。そのままずるずると進みゆくのみである。
 南无阿弥陀仏を通して、人生そのものが私自身に呼びかけている。あなたは本当の自分に遇っているか。これが自分だと思っている自分は、自分が自分勝手に造り上げた自分ではないのか。本当の自分に遇えてこそ人間に生まれ出た意味があるのではないかと、人生そのものが私自身に必死に呼びかけている。それが南无阿弥陀仏のみ名(な)なのである。その呼び声に素直に応答していかねばならない。

佛様というのは なんまんだぶつ という響きです

西光義敞/彰見寺だより 2009年春 165号 巻頭言に掲載

 宗教関係の書物を見ていてふと目に飛び込んできた言葉である。常日頃、漢然と頭に浮かびながら、なかなか言葉にならなかったことが、何のてらいもなく自然に語られているのに敬服した。仏様ということを端的に見事に言い尽くしている。
「なんまんだぶつ」という言葉が声となって響きわたっている。「なんまんだぶつ」と言葉があっても、それが人を介し声となって響きわたらなければ生きてはたらかない。
仏様というのは常に声となって活動していて下さるのである。
 今日(こんにち)、存在する仏像も仏画も、お名号(みょうごう)の軸も、みな仏様である。それは「なんまんだぶつ」という声となって響きわたっている仏様を、私たちに知らせようとしていて下さる視覚に訴える方便(ほうべん)の相(すがた)なのである。

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人生は 聴聞を続ける ことで 広く深くなる

冨永正信/彰見寺だより 2009年夏 166号 巻頭言に掲載

 聴聞(ちょうもん)とは何を聴聞するのか。お釈迦さまの説き残されたみ教えを聴聞するのである。また、聴聞とは耳で聴くところに聞こえて来るものがあるということである。聴聞を続けるとは、説法の座に身を置き、どこどこまでも聴いていくという姿勢である。
 聴聞を続けることで、人生が広く深くなると言う。それは、広く深い仏さまの智慧(ちえ)がいつの間にか私の身にそなわってくるからである。
 仏法を聴聞することによって、一日一日を見る目が広く深くなってこそ、空(むな)しく過ぎゆく私の人生が根底から問い直され、そこに新しい生命をいただくのである。

念佛は 自我崩壊の 音である

金子大榮/彰見寺だより 2009年秋 167号 巻頭言に掲載

 私たちは、家庭生活や社会生活の中で、自分が一番正しいと思い込んでいないでしょうか。私が我慢して堪え忍んでいるから日々が平穏に過ぎていくのだと思い上がっていないでしょうか。このような姿は仏さまの智慧のまなこにはどのようにうつるのでしょうか。
 自分が我慢しているからうまくいっているのだと思うのは慢心です。その慢心が根底から揺すぶられる。すると、まわりの人が我慢してくださっていたから私はいられたのだと、自分の分限に目覚めるのです。これがまさに、仏さまの智慧のはたらきです。それが、自我崩壊の音なのです。
 みんな自分が一番正しいと思っています。その心は娑婆(しゃば)の業縁(ごうえん)から一歩も出ることはできません。しかし、分限(ぶんげん)を忘れていたと気づかされる時、静かにお念仏の中に、仏さまの大慈悲にふれ、お浄土のほのかな光に照らされる自分がそこに見えてきます。そして、智慧の光はいつも倦(う)むことなく私を照らしてくださっているのです。

たまわりし いのちのままに 寒椿

彰見寺だより 2009年冬 168号 巻頭言に掲載

 この句は、秋から冬にかけて、しきりに思い出される一句である。どなたが詠まれたものか知るすべもないが、今は作者の手を離れて、句は一人歩きし、多くの方々の心を温めている。
 酷暑に耐え、酷寒に耐え、強風に踏ん張り、全てを受け止めて精一杯の命を尽くしている寒椿。それに比べて私は、幸だ不幸だ、勝った負けたと、つい自分の都合を中心にして命の値打ちを勝手に決めつけていく。与えられた尊い命を生きるしかないにも関わらず、背負いきれず苦悩し愚痴となり、宿業から解放されることがない。この姿を照らし出し共に苦悩してくださるのが仏さまの智慧と慈悲の光である。
 親鸞聖人が、「ただ念仏して・・」とおっしゃったお言葉と、「いのちのままに・・・」とが重なりあい、解け合い呼応して響いてくる。

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御仏をよぶ わがこゑは 御仏の われを よびます 御声なりけり

甲斐和里子女史のうた/彰見寺だより 2010年春 169号 巻頭言に掲載

 当寺の前若院主であった慈徳院が、常日頃、味読していた和歌である。
 私の口から流れ出る南无阿弥陀仏のみ名は、私の意志で自分が発していると思っている。確かにその一面もある。しかし、その源を尋ねてみると、実はみ仏が私自身を呼んでいて下さる声ではないかと、私自身に響き返ってくる。自分が発した言葉が手がかりとなって、私自身を本源に帰していて下さる。前若院主が家族一人ひとりに、また縁のある人々に遺していってくれた大切な仏さまのおこころであると思っている。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔 慧日院道生

仏説阿弥陀経より/彰見寺だより 2010年夏 170号 巻頭言に掲載

 青い色は青い光を、黄の色は黄の光を、赤い色は赤い光を、白い色は白い光を放っている。
 それぞれの色は微妙に異なって光り、それらは互いに調和して香り高く、清浄(しょうじょう)である。
 仏説阿弥陀経の一節である。ふと当寺境内に眼を向けると、今、正(まさ)しくこのような光景が展開している。緑といってもそこに微妙な違いがあり、濃い緑もあれば、淡い緑もある。それらを背景にして、赤、ピンク、白等の深山(みやま)つつじが点々と咲いている。それぞれは皆、個性を持って咲いているのだが、全体に調和して美しい。阿弥陀経の世界が今ここに現成(げんじょう)しているように思う。

人生とは その日 その日の 法縁である

『聞思室日記』より 金子大榮師/彰見寺だより 2010年秋 171号 巻頭言に掲載

 私は本年で七十六歳を迎える。私にとってはこの七十六年が、かけがえのない私の人生そのものである。
 その間、自分の思い通りに事が進んだ時と、そうはいかなかった時とがある。両者のうち、どちらの方が多かったか。後者の方であると言っても差し支えないように思う。
 谷川の底にある砕石が激流に曝(さら)されて丸くなっていくように、自分の思いを超えた日常の出来事に、自分を見つめるご仏縁をいただき、一日一日と人間にならせていただく。「人生とは その日その日の 法縁である」とはそういう人生のあり方そのものを示唆しているように思う。

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法蔵菩薩は 一切衆生を救いたいとの 大悲願を建立し
五劫の間これを思惟し そのすぐれた願を満足した
その時 法蔵菩薩は 阿弥陀仏に成り給うた
その時からすでに 十劫の歳月を経過している

『文類偈のおこころ』より 小妻道生/彰見寺だより 2010年冬 172号 巻頭言に掲載

 文類偈の冒頭に、五劫(ごこう)と十劫(じっこう)ということが出てくる。
「思惟摂取経五劫」
「満足本誓歴十劫」
 劫とは我々凡夫の想いをはるかに超えた長い年月を意味している。人々の根源的な救いを願われた法蔵菩薩は、その実現の為に、五劫という長き歳月を要された。
 全ての人々を救うということの至難さを物語っている。そして、南無阿弥陀仏という言葉をもって救う他ないという最終の結論に達し、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成り給うた。その時以来、既に十劫という歳月を経過しているのだといわれている。阿弥陀仏は最後に至り着いた南無阿弥陀仏という世界・言葉、即ちお名号を一切の衆生に届けようと、昼夜の区別なく、精進下さっている。その阿弥陀仏のおはたらきを、私達は無にしてはならないと思う。

めぐり合うた よろこびこそ 生きたよろこびである

平成十四年法語カレンダ丨の言葉より/彰見寺だより 2011年春 173号 巻頭言に掲載

 富山県に生きられた妙好人、館煕道(たちきどう)さんの言葉である。
 出会いを心から感謝している人の言葉であることがわかる。出会いの中には好ましい出会いもあるが、実は出会いたくなかった出会いもあるはずである。
 しかし、そのような出会いもあって、私は現にここにお育てを頂いているのである。その好悪を超えて、その出会いを尊く受け止めている姿が鮮やかに浮かび上がってくる。

涼しさや 弥陀成佛の このかたは

小林一茶 俳句より/彰見寺だより 2011年夏 174号 巻頭言に掲載

 この記事が皆様のお手元に届く頃は、大変な暑さであろうと思います。俳人である小林一茶の句に「涼しさや弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは」とあるのを思い出しました。
 このたびの震災や原発事故は、大変な苦悩をもたらし、あたかも猛暑の中におかれているようなものであります。その反面、この現実を変えねばと多くの人々から救援の手が差しのべられています。
 そして、その救援の根源に阿弥陀仏の因位(いんに)、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)の在(ま)しますことを感じます。私達は名号(みょうごう)が与えられていたことに気付いて助かるのです。それが弥陀成仏以来のあり方です。この一点に気付けば、猛暑の中にも、一陣の涼風を感じることが出来ましょう。その心がこの一句の中に歌い上げられているのです。

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往生というは 浄土に生きる というなり 慧日院道生

二〇一〇年度法語カレンダーより/彰見寺だより 2011年秋 175号 巻頭言に掲載

 往生(おうじょう)という言葉は日常生活の中で、度々使われています。多くの場合、困り果てた状態、更には臨終の意味すら持っているようです。
 しかし、往生の言葉には本来、暗いイメージは全くありません。何故なら、往生とは本当に生きていると言える世界に往き生まれること、即ち往生浄土ということで、本来は希望に満ちた明るい意味を持っているのです。
 我々の往く先を考えてみると、結局は死の世界でしかない、つまり、往死の日々を歩んでいるのではないか。それが我等の偽らざる実態ではないのか。往死の生活はゴールに到ると、それで万事休すです。未来なき生活は絶望です。その往死の日々を往生と言える日々に転ぜしめるもの、それが信心です。念仏申す外なしという大いなる決断であります。信心はその壁を打ち砕いて、浄土に生まれるという未来を切り開くのです。
 未来を切り開いてこそ、意味ある日々を送ることが出来るのです。

失ったものの大きさは 与えられていた ものの 大きさである

彰見寺だより 2011年冬 176号 巻頭言に掲載

 真宗高田派教師会、真宗高田派十万人講財団から、各末寺に配布せられた法語の一つである。
 私達は常日頃、家族等大切な方を亡くした時、失ったことの大きさのみを悲しんでいるのではないだろうか。ところが、失ったことの大きさは、反面、与えられていたものの大きさに気づくまたとないチャンスである事に気付けない。
 人生は念仏申す他なかったのだという信心につつまれてみると、つらかった事が転ぜられて、与えられていたものの大きさに気付く明るい世界が見えてくる。
 失ったものの大きさと与えられていたものの大きさ、この両面をしっかりと見据えてこの世を送る、これが信心に目覚めた豊かな日送りであると思う。

宗教とは 己の人生を托して 悔ゆることのない
たった一つの 言葉との 出遇いである

金子大榮/彰見寺だより 2012年春 177号 巻頭言に掲載

「宗教とは」という人類にとっての永遠のテーマを掲げ、現代人の多くが抱く疑問に対して金子大榮先生が応えられた内容と言えます。
 人生において、その意味や方向に迷い模索する時、はっきりと歩むべき道を示して下さる導きは、大きな意味を持ちます。短い言葉でも、その背景には、深くて広い思いというものが宿っています。故に、たった一つの言葉にしても、その重みやはたらきは、計り知れないものがあるのです。あなたは自分の全生命をかけても悔いのない言葉と出遇っていますか、との問いかけでもあります。
 親鸞聖人は、そのたった一つの言葉を「南無阿弥陀仏」と頂き、「念仏のみぞまことにておわします」と、その意味を一生をかけて尋ね、深めていかれました。

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良い事をしようと 思えばできる
悪い事はすまいと 思えばやめられる これを 思いあがりという

彰見寺だより 2012年夏 178号 巻頭言に掲載

 ここに掲げた言葉は、味わえば味わうほど、厳しい現実を思わされるとともに、歎異抄の中の一節が迫ってくる。
 さるべき業縁のもよおせば、
 いかなるふるまいもすべし
 何事も自分の意志によって、思い通りにすれば出来ると思い込んでいる。
 しかし、縁の中を生きている私たちは、良い事が出来た時はたまたま良い条件が整ったからである。また、悪い事をしてしまった時はおのれの心の危うさが見えてくる。
 思い上がりの一言はまさに箴言(しんげん)と言えるであろう。

念佛は 私の心を 写し出す鏡

光山道潤/彰見寺だより 2012年秋 179号 巻頭言に掲載

 私達は、日常生活の中で、よく「反省」という言葉を耳にします。それは振り返ってよく自分の行いを見直してみるということですが、それが何処まで徹底的に出来るでしょうか。私達は、何といっても自分が一番かわいいのです。ですから、反省をするといっても、最終的には自分に甘い点を付けてしまいます。
 また、人間は自分の姿を全て見ることは出来ません。背中や、外を見ている自分の目を見ることも出来ないのです。そんな時、鏡を使います。そのように、私の心を見る為には、心を写し出す鏡が必要となります。その鏡が仏様の教えです。
 仏様の鏡は明鏡と表現されています。全てを容赦することなく照らし出す働きです。それが仏様の智慧の働きです。その裏には間違いなく本当のことを知らせ、私達を必ず目覚めさせ、命の完成の仏にならせようと働いて下さっている仏様のあたたかい慈悲の心が働いているのです。

ころんでも ころんでも 大地の上
つまずいても つまずいても 如来大悲の中

彰見寺だより 2012年冬 180号 巻頭言に掲載

 最近よく勝ち組とか負け組とかいう言葉を耳にする。その言葉の響きの中では、勝ち組はキラキラと輝いているようなイメージがある。
 私達は負ける時もある。負けを認めることは嫌なものである。しかし、負けた中から、あなたはどう生きるのかと大切な人生の問いを頂くことがある。
 人生は喜怒哀楽の繰り返し、そのことによって慈しみ育てられているのが私達である。喜怒哀楽が私の今いる存在の大地なのである。転んでも躓(つまず)きながらも、慈しみ育てられているのである。大地があるから、転んでもまた立ち上がることが出来る。しかし、大地は崩れる事もある。もう一つその奥に崩れることのない全てを支える無限の大地、即ち如来の大悲が確かなものとして思われてくる。

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本願力に遇いぬれば 空しく過ぎる人ぞなき
成徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

浄土高僧和讃 天親章第三首目/彰見寺だより 2013年春 181号 巻頭言に掲載

 親鸞聖人は、数多くのご和讃を作られた。その中でもよく佛事の時に多くの人々と共にうたわれるご和讃の中の一首である。聖人はご和讃を作られる時、平易な言葉を使われ、しかも多くの人と共に誦すると、その思いが共感出来るようにとの配慮がされているように思う。
 本願力、即ち、阿弥陀さまの慈悲のあたたかさに触れたならば、空しく過ぎていく人生だなあと悲嘆にくれる必要はありませんよ、と呼びかけておられるのです。自分の人生を自分の思い通りに転回させたいという視点に立つ限り、不本意な出来事は全て捨て去っていかねばならない。実は捨てているものの中に意味を見出していくとすれば、悲しい事や苦しい事の中にも私を育てる大切な宝物があったのだと分からせて頂くのである。それが阿弥陀さまのはたらきであり、転成の智慧と呼ばれているものである。自分にとって嫌だと思うものが無くなって救われるのではなく、そのままで転ぜられていく境地が与えられるのである。
 そうしてみると、全ての事が功徳の宝海の中で光り輝き、煩悩という濁った水のような我が思いも、本願力に包みこまれていくのである。この世で不必要なものは何もない。煩悩までが立派にそのつとめを果たしているのである。聖人はこの様な力強い世界をお念仏の中に見出され、後の世の我々にまで共に誦するという形で残して下さったのである。

念仏は苦悩を 避けるのではなく 乗り越える力

光山道潤/彰見寺だより 2013年夏 182号 巻頭言に掲載

 念仏は苦悩を避ける為にあるのではなく、それを乗り越えていく力を与えて下さるものであると、光山師はお示し下さっている。私達は人生の途上で、苦難に出会い、苦難は苦悩となって、身も心もさいなむ。早く解決して楽になりたい、平穏に戻りたいと誰もが思う。渦中にあっては、藁をも掴みたい気持ちになる。
 そのような時、思わずお念仏を申す。では念仏と苦悩の関係はどうなっているのだろうか。苦悩の方に比重がかかっているのではないか。そうすると念仏が苦悩を回避する為の手段となる。万一、苦悩が過ぎ去ると、念仏は忘れられ、不必要となる。しかし生きている以上、次から次へと苦悩は押し寄せてくる。
 お釈迦様は、縁起を覚られたと言われている。全てのことは縁によって起こる。全ての現象は原因や条件が相互に関係し合って成立しているものであるという意味である。人は生きている限り、関係性から離れることは出来ない。故に、嬉しい事も、悲しい事も、苦しい事も縁が来れば、出遇っていかねばならない。そんな私達を仏様は一番深い所から支え続けて下さっているのである。そこに気付かせて頂くと、念仏は、現状を私の都合のよいように回して下さいとお願いするものではなく、何処までも力強く、現実を生き抜いていく自分を誕生させて下さる力を育んで下さっていたのだと分かる。

壁が 扉になる

慧日院道生/彰見寺だより 2013年秋 183号 巻頭言に掲載

 高田本山から送られてくる『掲示板の言葉』で、この一行と出遇い、どきっとさせられるような印象の強い表現にしばらく考え込んだ。そしてこの命題に悪戦苦闘し、言葉通り、目の前に厚い壁が立ちはだかった。
 人生において薄い壁や厚い壁に何度となく出くわす。ぶつかる度に何とかしよう、何とかしなければと出口を求めてもがく。そして問いが投げかけられる。浅い問いに関してはすっと扉が開くが、深い問いにはそうはいかない。迷いを重ね、道を求め、ふと誰かに尋ねようと左右を見ると誰もいない。経典に「独生独歩独去独来」とあるが、その言葉の通りだなあと現実味を帯びて孤独感が迫ってくる。
 壁にぶつかる、つまり人生に行き詰まる時、「ひとり」という身がしみじみと自覚され、そして誰とも代わってもらうことの出来ない人生を背負って歩み続けていくのだと実感される。実はその壁、即ちその深い問いに出遇うことが、尊いのではなかろうか。壁があるからこそ真実に出遇え、私が人生を空しく終わらぬよう育てられていくのであろう。
 壁は四苦(生・老・病・死)である。また愛する者と別れる愛別離苦、憎む者と会う怨憎会苦、求めて得られない求不得苦、身心を形成する要素に執着することによる五陰盛苦と仏教では教える。まさに四苦八苦である。それこそが本当の私の姿だと頷く時、現実から逃げ出さず全てを引き受けて生きる私、自分の足でひとり立って歩ける私が誕生し、尊い存在であったと頷けるのではなかろうか。生まれたばかりのお釈迦様は、七歩あゆまれ、天と地を指さして、「天上天下 唯我独尊」と言われた。
 今ここに、かけがえのない命を賜り、大いなる仏様の大悲に包まれての日々を思う時、かたじけなさに自然と手が合わされてくる。何処からか、扉は見つかりましたかと、声がする。

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「おかげさま」と 言える人生に 孤独はない

道生書/彰見寺だより 2013年冬 184号 巻頭言に掲載

 「お元気ですか」と声をかけられ、
 「おかげさまで」と応える。
 あちこちで交わされるこの言葉に、ほっと心が温められる。親しい人を思いやる優しい気持ちが、「お元気ですか」と発せられ、その思いを感謝の心で「おかげさまで」と返していく。そんな日常会話は美しい。
 ところで、我が身を頭の上から足先までゆっくりと見つめてみると、なんと「おかげさま」の固まりだ。両親のおかげでこの体を頂き、多くの人々との関わりの中で育てられている。見るもの聞くもの、着るもの食するもの、みな頂きものばかり。太陽の恵み、空気の恵み、水の恵み、数えだすときりがない程である。一人ぼっちの私がこんなに多くのものに囲まれて、何と全てのものと繋がっているではないか。
 さて孤独ということについてであるが、親鸞聖人が大切に敬われた七高僧の第三祖曇鸞大師の譬え話の中に、「蚕の譬え」というものがある。蚕が繭の中に閉じ込められている状態を、人が孤独感に陥っている姿に譬えて、我が姿を教えて下さるのである。蚕はどんどん糸を吐いて、自らその糸で雁字搦めになっていくのである。私は教育があり、ものをよく知っている。私は経験が多いから道を外れない。私は何でも出来る。私は正しい。私がいるからこの家は回っている。私の力でこの会社はうまくいっている。私・私という糸を次から次へと吐き出し、気が付いてみたら自分の吐いた糸で身動きが取れない状態になっている。そんな私は人を寄せ付けず、孤独にどんどん落ち入っていきますよと、分かりやすい譬えで教えてくださっている。
 多くのものに支えられている人生に、「おかげさま」、「かたじけない」、「もったいない」と手を合わせたい。

苦しみがなくなると いうことは
その苦しみを生かして いくことができると いうこと

逢茨祖運師/彰見寺だより 2014年春 185号 巻頭言に掲載

 私たちの日常生活において、次から次へと押し寄せてくる苦しみは、果てるということがありません。では、この苦しみをどうすることも出来ないのでしょうか。
 先覚の言葉に、「過去に起こったことは変えることは出来ない。しかしその意味を問うことは出来る」とあります。あの苦しみに出遇ったことは私にどんな意味を持っているのだろうか。私に何を教えようとしているのだろうかと、内へ内へと問いを深めていくことではないでしょうか。
 その反対に外へ外へと苦しみの原因を求めていくと、政治が悪い、教育が悪い、環境が悪い、揚げ句の果てには、両親が悪いと、頂いた自分の命さえも罵りかねません。仏教では外へ外へと原因を押しつけていくあり方を外道と教えています。
 どんな悲しみの中にも、どんな苦しみの中にも、私への深い深い仏さまからのメッセージを静かに聞き取っていく時、ああ尊いことに出遇わせて頂いたと人生に合掌することが出来るのではないでしょうか。苦しみを糧として、次のステップへと力強く歩み出す私が、そこに誕生することでしょう。

鏡の前に立てば 自分の姿が見える
み仏の前に立つと 自分の心が見えてくる

瓜生津隆真/彰見寺だより 2014年夏 186号 巻頭言に掲載

 朝、目覚めてから就寝するまで、私たちは一日何回、鏡を見るであろうか。その度に髪の乱れやネクタイの歪み等々、折に触れて正す。そして顔の表情で今は明るい顔をしているなとか、今は暗い顔をしているなという位のことは分かる。ところが心の奥底までは映らない。
 しかし、み仏と静かに対座し、思いを内へ内へと巡らすと、自分の心が見えてくる。いやな心が起こってしまったなとか、ついつい言ってはいけない事を相手にぶつけてしまったなとか、自分を見つめて反省をしたりするが、本当に心の底から反省が出来ているのであろうか。どうしても自分には甘い点をつけてしまう。そして他の人も同じような事をしているではないかと終わっていく。
 ところが、仏さまは自分の立脚点を自分可愛さの所に置いていないか、自己愛の目で外界を捉えていないかと、厳しく私の赤裸々な姿を教えて下さる。それが自分と対峙することである。その事が仏と出遇うということである。

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はずかしや 錆びにまみれし古釘が 大きな磁石に 吸いとられたり

駒沢イチエ/彰見寺だより 2014年秋 187号 巻頭言に掲載

 作者は明治三十五年広島県三次市に生を受け、九十年の生涯を静かに閉じ、お浄土へ還られました。そのご一生は苦難の連続であられましたが、その中にあって、親鸞聖人の教えをひたすら求め、晩年には多くの歌を詠まれ、「私のよろこび」という歌集にまとめられました。最初のページに、「よろこびを ノートに記すらくがきは 先立つ我の 形見なりけり」とあり、後に続く私たちはその歩みを道しるべとして頂いていきたく思います。
 仏法聴聞を重ね重ねて見えて来たご自分の姿を、「はずかしや」と悲嘆を込めて告白されます。「私は正しい。相手に非がある」と、厚い煩悩の鎧で自分の身を固めている時には到底出て来ない言葉です。仏さまの光りに出遇ったが故に、見せて頂いた我が姿です。それが長い年月の間に錆付いて古釘になったと譬えられ、その古釘が、しっかりと阿弥陀さまの大きな磁石に吸い取られたのだと、懺悔のお念仏と感謝のお念仏がほとばしり出る一句となっています。

南無阿弥陀仏は お浄土からの そよ風である

梯 實圓 師/彰見寺だより 2014年冬 188号 巻頭言に掲載

 本年五月、梯先生は八十八歳でお浄土へお還りになった。そのご一生はお念仏一筋であったと伺っている。そのご一生から、上記のお言葉がにじみ出た珠玉の言葉と思われる。
 私はいつの頃からか、誰に教えられたのかも定かならず、仏さまに手を合わせ、頭を下げていた。今振り返ると、お育ての賜であった。
 成長するに従って、迷いも悩みも深まり、誰に胸の内を打ち明ける事も出来ず、心の底で、そっと「南無阿弥陀仏」と呟いていた。
 「私が如来と対話出来るのは、念仏という共通の言葉があったからだ」という言葉と出遇った。また聞法させて頂く中で、「摂取不捨」という「摂めとって決して捨てない」と誓われた仏さまの慈悲心を聞かせて頂いた。
 日々の生活の中で、嬉しいにつけ悲しいにつけ、まだどん底に突き落とされたような事に出遇った時も、お浄土からのそよ風が、励ましの声となり、またお叱りの声となり、私に届く。

知慧・慈悲のはたらき そのものが 仏なのです

平成二十七年度法語カレンダー/彰見寺だより 2015年春 189号 巻頭言に掲載

 本年三月二十一日(土)、二十二日(日)には、当寺に一光三尊佛をお迎えして、御開扉法会が厳修されます。一光三尊佛とは、一つの光背に中尊として阿弥陀如来像が、そして脇侍仏として向かって右に慈悲の観音菩薩像、左に智慧の勢至菩薩像が並び立っておられます。親鸞聖人は毎日この尊像に礼拝され、そのお姿の中に慈悲と智慧のはたらきそのものを強く感じとっておられたのです。
 私たちは日々の心乱れる生活の中にあって、ある時はきびしい智慧のはたらきで心の底の底まで照らし出され、頭の上げようのない自分に気付かされます。その私が慈悲のはたらきのやさしく大きな御手の中にいだかれています。
 生活の中での一挙手一投足の動きの瞬間瞬間に自身があらわになり、まさにその時、「仏」のはたらきが感ぜられるのです。ですから生活そのものが、「仏」と共にある道場と言えるのではないでしょうか。

仏さまの 光に照らされて 心の闇の 深さがわかる

道生書/彰見寺だより 2015年秋 190号 巻頭言に掲載

  「仏さま」のことを親しみを込めて「如来さま」とも呼びかけます。「如来さま」と表現すると、仏さまが動き出して感じられます。その意味は、真理の体現者 として真如の世界から来て、衆生を教え導くという活動的な面をあらわす仏さまの別名だからです。ある方は、「如来は動詞である」とおっしゃいました。まさ に「光に照らされて」というのは、仏さまのはたらきに出遇うということなのです。
 そのはたらきとは、私たちが日々出遇う様々な出来事の中に、私 の本当の姿を照らし出し、自己中心的な誤った考え方を厳しく教えてくださるのです。自分の心の底の闇が深く照らし出されるということは、そのまま仏さまの 光の強さ、はたらきの大きさを表していることでもあります。
 「如来常住」、「常照護」という言葉があります。仏さまのはたらきは、永遠に変わることなく、いつでもどこでも出遇えるというはたらきです。仏さまは私の目覚めを待っていてくださるはたらきなのです。

いかなる 昨日より 今日が 尊い

両瀬 正男 師/彰見寺だより 2015年冬 191号 巻頭言に掲載

大切なのは かつてでもなく これからでもない 一呼吸 一呼吸の 今である
坂村 真民さん

人生とはその日その日の 法縁である
金子 大榮 師

人生とは尊いいのちとの 一日一日の出会いである
瓜生 津隆真 師

 上記のごとく、先達の方々は色々な表現の仕方で、一日一日の尊さを教えてくださる。
 この世に当たり前という事はない。全ての条件が揃ってこそ、はじめて物事は成り立つのである。縁起すなわち「全ての事は縁によって起こる」が真実である。
 「いかなる昨日より」というのは、栄光に満ちた昨日であっても、大失敗をした昨日であっても、もはや過ぎ去っていかんともしがたい。そして明日を夢見ても、不安を抱えても未だ来ない明日は、どうすることも出来ない。
 今ここに生きるいのちは、過去も未来も包む一瞬一瞬なのである。

うれしい時でも 悲しい時でも 自分の人生は そこにある

道生書/彰見寺だより 2016年春 192号 巻頭言に掲載

 お釈迦さまは、「一切皆苦」、「人生は苦なり」と説かれた。それは人生は思い通りにならないのだ、ということである。嬉しいことや悲しい事が、我々の思いを超えて次々と波のように押し寄せてくるが、そこから逃げることも出来ないし、選ぶことも出来ない。全ての事は縁によって出遇っていくのであるから、その真っ只中に私のいのちはあり、生活がある。その道理に頷き、認めていく営みが大切であると思う。
 どんな辛い境遇にあっても、それを因縁の道理と受け止めていく時、私の生きる姿勢が定まり、生きる方向がはっきりする。そして生きる背景には量はかり知れない条件があってのことだとも気付かされる。
 人が「幸せ」と感じるのはどんな時かというと、自分の思い通りに事が運んだ時であると言われている。しかし世の中は、私の都合で回っているのではない。道理が動いているのである。道理はあらゆる人間の価値や解釈を超えて、自由と平等の大地を展開している。
 その事実に気付かせてくれる大いなる智慧を頂くとき、私の一日一日がかけがえのない尊いものとして光輝いてくる。そこに安心があり、救いがある。

193号 巻頭言

南無阿弥陀仏は いのちの言葉

ことば 岡本 禮子、書 副住職 小妻 ひろ子/彰見寺だより 2016年秋 193号 巻頭言に掲載

 大和仏教センターの伝道板に、四十年来その時浮かんだ言葉を書き続けられた、岡本禮子さん。その言葉は道行く人に語りかけ、心に深くしみこんでいきました。その中の一句を巻頭言として、味わせて頂きました。
 「南無阿弥陀仏は いのちの言葉」
 短い言葉で端的に御自身の生き方や進む方向が表現されていて、揺るぎない思いが伝わってきます。
 いのちが本当に出遇わねばならない言葉とは何だろう。
 いのちを根底から支えてくれる言葉は何処にあるのだろう。
 いのちが本当に満足し、喜んで帰していける世界は何処にあるのだろう。
 私はどんなことに出遇っても、しっかりと方向を見失わずに、立ち上がっていけるのだろうか。
 ここにいのちに既に与えられている言葉がありますよ。それが「南無阿弥陀仏」という言葉ですよ、と先達はご自分がお念仏に出遇えたよろこびを、こんな一句で私たちに伝えてくださっていたのでした。

194号 巻頭言

ものが縛るのではありません ものをとらえる心に縛られるのです

仲野 良俊/彰見寺だより 2016年冬 194号 巻頭言に掲載

 外界のものが私を縛りつけるのだとばかり思い込んでいたけれど、実は外界を自己中心的に捉え、そしていつまでも執着している私の心に縛られているのです、と教えられます。
 これは仏さまの智慧の光に照らされて見えて来る世界であり、自ずから転ぜられていく明るく安らかな世界と言えます。
 お釈迦さまは「一切は苦なり」と説かれ、苦の元は何処にあるのか、ということをはっきりと示されました。
 苦の原因は外にあるのではなく、「自己中心のこころ」により果てしなく煩悩を募らせ、「自己執着のこころ」により、いつまでも煩悩に支配されていくのだと喝破されました。
 人は外界を五感で捉えて、その情報を善い悪い、美しい醜い、役に立つ立たない、好き嫌い、と分けていきます。そして自らにとって欲しいものが奪われそうになると、心は怒りに転じ、失われると愚痴に転じます。
 その繰り返しの毎日に、安らぎはありません。
 自らの心の行方をしっかり見つめてくださいとの呼びかけです。

195号 巻頭言

迷信とは自分が自分の心に迷うこと

南御堂掲示板/彰見寺だより 2017年春 195号 巻頭言に掲載

 「自分が自分の心に迷う」とは、どんな姿をさし、仏さまの目には私たちの有様がどのように映っているのでしょうか。
 例えば、私たちは道に迷った時の正しい地図を持っているでしょうか。また動物が獲物に突進して、我が身に迫る危険に気が付いていないように、欲望に走り目先のものに飛び付こうとしてはいないでしょうか。迷うとは、欲・怒り・愚痴に振り回されて、次第に溺お ぼれていき、平常心を失うことであると教えられます。そうすると、次第に正邪の見分けが付かなくなってしまいます。
 この尊いいのちを頂きながら迷いの中にある姿に、仏さまは悲しみの目を注ぎ、智慧の光をもって導いていかれます。

 智慧の光とは、人生を生き抜くための正しい地図、歪みのない鏡、狂いのない物差しを与えてくださることなのです。

 かなしきかなや道俗(どうぞく)の
 良時吉日(りょうじきちにち)をえらばしめ
 天神地袛(てんじんじぎ)をあがめつゝ
 卜筮祭祀(ぼくせんさいし)をつとめとす
親鸞聖人のご和讃
 
(現代語訳) 悲しいかな、今の世の僧も俗人も目先の欲望を満たすために、日や時の善し悪し、吉凶を選んでいるまた現世の幸せを与えるとされる天の神や地の神をあがめ、占いや鬼神をまつることによって、災いを除こうと努めている

196号 巻頭言

人生を結論とせず 人生に結論を求めず 人生を浄土の縁として生きる これを浄土真宗という

細川巌著『晩年の親鸞』より/彰見寺だより 2017年秋 196号 巻頭言に掲載

 私たちは次々と押し寄せてくる現実問題にどう向き合えばよいのでしょうか。仏教は、お念仏は、先人達は、どのように教えてくださるのでしょうか。
 日々悩まされる苦しみの渦中にある時、なぜ私がこんな目に遭わねばならないのかとか、どうすればここから抜け出せるのかと焦ります。そして、早く答えを出し、自らを納得させようとするのではないでしょうか。
 ところが、私の出す結論は発想が自己中心的なものであり、自己執着した経験から出た狭い善悪の判断でしかありません。
 細川先生は、親鸞聖人のご一生に深く学ばれ、刻々と迫り来る現実問題を、「ご縁」・「ご縁」と受け止め、仏さまのはからいに身も心も委ねていかれました。自ら転ぜられていく世界を頂く中から紡ぎ出された言葉を、私たちに残してくださいました。

197号 巻頭言

わたしは今どこに立っているのか わたしは今どこに向かって歩いているのか わたしは今どんな道を通っているのか

大山了雲師/彰見寺だより 2017年冬 197号 巻頭言に掲載

 私達は、日々忙しい忙しいと時に流され、一日が過ぎていきます、一度立ち止まって、心静かに仏さまのまなざしと向き合ってはどうでしょうか。
では、仏さまは私たちにどう問いかけておられるのでしょう。
 「あなたは今苦悩のぬかるみに足をとられていませんか」
 「あなたは今ほめられたい・思い通りにしたい・楽をしたいと自己にとらわれる生活を送っていませんか」
 「あなたは今私の前に広くて明るくて正しい道がすでにあることを知りませんか」
 仏さまの智慧は、全ての出来事は縁によって起こりますから、おかげさまで多くのものに包まれて、今あたたかい命を生きているのですよ、と教えてくださいます。
 そして、いのちはひと息ひと息です。その今のひと息の中に、私の過去のすべてが表れ、今のひと息が未来を決めていくのです、と教えてくださいます。
 そんな尊い命を「ありがとう」「ごめんなさい」と手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と日送りさせて頂くいとなみを、私たちはすでに仏さま、そして先祖の方々から頂いているのです。

198号 巻頭言

ほめられて有頂天 くさされてペチャンコ でも 私以上でも以下でもない 私自身 それに気づかぬ 私が居る

佐藤哲了/彰見寺だより 2018年春 198号 巻頭言に掲載

増上慢(ぞうじょうまん)
思い上がりの心や よごれた心の慢
卑下慢(ひげまん)
自分より優れているものに対し自分は劣っているとする慢
我慢(がまん)
我あり、我が所有ありと執着している心
邪慢(じゃまん)
徳がないのに自ら有徳であるといって高ぶる慢
仏教では慢の心を細かく分析して教え、高ぶりも卑下することもともに慢であると説きます。
日常生活の中で人と出会うと、瞬時に比較する。あの人に負けた、この人よりましだ、と心が動き、すぐに査定を始める。恥ずかしい心のざわめきである。
しかしこの差別心をなかなかやめられないが、仏さまの光が私の姿を照らし出して、身の丈のあなたでいいのですよと呼びかけてくださいます。

199号 巻頭言

人生は苦なりと 見きわめるところに 出発がある

浅井成海/彰見寺だより 2018年秋 199号 巻頭言に掲載

 今から二千五百年前にインドに誕生されたお釈迦さまは、『一切皆苦』『四苦八苦』と人生の受け留めを説かれた。思い通りにしたいが、思い通りにならないのが人生です。生老病死という四苦は外からやってくるものではなく、我が身の事実であると教えられます。「そのことをごまかさず、逃げずに現実をきちんと見極め、受け止める。その事が苦悩を乗り越える道の出発点である」と、浅井成海師はお釈迦さまの教えを力強いお言葉で伝えられました。まさに教えとの出遇いです。
 仏教は悲観的な教えではなく、厳しい現実認識の教えなのです。

200号 巻頭言

偽物の中で生きると本物がわからなくなる

藤田徹文/彰見寺だより 2018年冬 200号 巻頭言に掲載

 偽物というものは、本物に似ているので、なかなか見分けがつかない。本物を見る目を失うとどうなるのでしょう。
 例えば、金額の高いものを「いいもの」と錯覚して、高価なものさえ買えば、間違いないと思ってしまう。
 ところが大切な命が本物と出遇えていなければ、偽物の一生を過ごし、偽物のまま生涯を終えていかねばなりません。
 私達は穢土で生まれ終わっていく存在です。穢土は三毒の煩悩で覆われ、本当のものが見えない世界です。
 大切なことは、本当の言葉、教えとの出遇いなのです。
 本当の事とは、今ここにこうしてあることは、当たり前ではない。すべてのご縁を頂いてその中にあるということ、そして、刻々と流れていく一息一息の命の中に、永遠の過去と永遠の未来を今生きているということ。
 聖人が一生をかけて求め続けてこられたものは、本当の言葉と教えとの出遇いだったのです。

201号 巻頭言

人とくらべれば争いが生まれる 佛とくらべれば慚愧が生まれる

大在 紀/彰見寺だより 2019年春 201号 巻頭言に掲載

 この世は、相対、比較の世界です。
 私が、私が、という自我のものさしで測ると、相手をけなしたり、批判したり、見下げたりします。
 常に他と比較して、一喜一憂し、心の休まる時がありません。
 数値に眩惑(げんわく)され、我を失い、争いにまで発展してしまいます。
 仏さまの平等で無差別の心にふれる時、我が姿が見えてきます。
 仏さまの衆生にかけられる願いの深さ、大きさ、あたたかさに出遇い、我が身をかえり見る心が生まれます。

202号 巻頭言

南無阿弥陀佛との出会いは私との出会い お念佛が私を私にして下さる

眞城 義麿/彰見寺だより 2019年秋 202号 巻頭言に掲載

 今、私の口からこぼれ出た南無阿弥陀仏は、思い返せばその言葉を教えてくださった方々があり、懐かしい顔が浮かんできます。人生の先輩たちは、うれしいにつけ悲しいにつけ、常に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と歩みを進めておられたのです。自分の心の奥深くを見つめながらのお念仏生活だったのです。
 私たちは、自分の事は自分が一番わかっているつもりでいます。そして自分の知恵でまわりをさばき、自分の思いが正しいと思い込み、その思いにしがみついています。そんな私を仏様が悲しみのまなこでじっと見守り続けていてくださる。
 お念仏と出遇う時、本当の私と出遇えるのです。

203号 巻頭言

天命に安んじて 人事を尽くす

清澤満之/彰見寺だより 2019年冬 203号 巻頭言に掲載

 古くから伝わることわざに「人事を尽くして 天命を待つ」とある。人は人生に理想をかかげ、目標を立て、人知を尽くして努力する。しかしどんなに行き届いた注意のもとに計画を立て進んでも、予知しない出来事に見舞われ、実現を阻まれることがある。想定外とうなだれる。そのような時、人は「やるだけのことはやった。あとは運を天に任せるしかない」と、つぶやく。これを運命論という。
 即ち、人間の行動を支配する大きな力があるのだという考え方である。その底には、我々がいかに見えない力に支配され、不安をかかえて生きているかということである。
 明治時代に出られた清沢満之(きよざわまんし)師は、その生き方は我々を運命に縛り付け、迷信に追いやると考えられたのです。それは仏教でいう縁起の法に背くものである、と。上の句と下の句を入れ替えて、「天命に安んじて 人事を尽くす」と言われたのです。
 そのお心は、まず私たちは縁によって今を頂いているのだから、その事を深く味わい、逃げずにすべてを受け止め、その中で自分の出来る事をさせて頂きましょう、と。善悪・吉凶を超えた安らかさの中でしっかりと自らの足で立つ、真の独立者の生き方があるのです、と教えてくださったのです。

204号 巻頭言

苦しみがなくなるということは その苦しみを生かしていくことができるということ

蓬茨祖運/彰見寺だより 2020年春 204号 巻頭言に掲載

 次から次へと押し寄せる苦しみ。四苦八苦とあえぎ、「ああ、娑婆だなあ」と嘆息する。この有様を今から二五○○年前にインドに生まれられたお釈迦様は「一切皆苦」と言い切られました。
 しかし、この世には楽しい事もうれしい事もあるではないかと反論したくなりますが、現世は無常です。すべては流れていきます。楽しい事もうれしい事も続きません。また喜びが大きければ大きいほどその裏返しの苦しみが増します。そのすべてを「一切皆苦」と教えてくださるのです。
 では「苦しみを生かす」とは、苦しみをどう受け止めることでしょうか。
 現世は私の都合で動いているわけではありません。遇わねばならないものには遇わねばなりません。全てを自分の価値基準で、良い悪い、勝った負けた、役に立つ役に立たないとより分けていきます。その自分中心の思いに気づき、ありのままを受け止め、その中で自分らしく、自分の出来る事を精一杯尽くしていく。そこに「苦しみを生かしていく」というお念仏生活があるのです。

205号 巻頭言

咲く花の美しさを知っていても万物を育ててくれる大地の大きな恵みを忘れがちである

瓜生津隆真/彰見寺だより 2020年秋 205号 巻頭言に掲載

 美しく咲いている花にしばし足を止め、心和ませる。しかし、表面的な美しさのみに心奪われて、その一輪一輪の花が咲くために、どれだけ多くの縁が関わっているのかを見落としがちである、と瓜生津先生は教えてくださる。太陽の恵み、空気や水のありがたさ、大地の支え、全てが整ってこの一輪は花開く。
 それは、そのまま私たちの命の受け止め方にも重ね合わせることが出来る。想像力や柔軟な心で思いを深めよう。私たちの今の一息一息はどれだけ多くの生き物の命を頂き成り立っているのか、また、どれだけ多くの人々の支えによって今があるのか、と。当たり前という事はないのだ、ということに、深く思いを馳せよう。
 そこには、かたじけない、ありがたい、もったいない、おかげさまで、と生きてこられた先人達のお念仏される静かな姿が伝わってくる。
 自然に、「ありがとう」「ごめんなさい」と、手が合わされる。

206号 巻頭言

この世は自分の生きがいを探しにきたことろこの世で仏に遭わねば生きがいもない

飛鳥井昌乘/彰見寺だより 2020年冬 206号 巻頭言に掲載

 人はある時、思いがけず高い壁すなわち人生苦に出遇い、そのことが自分を深く見つめ直すきっかけとなります。
―この苦しみはどこからきたのか
―この苦しみはいつ終わるのか
―何のために苦しみに出遇わねばならなかったのか
 問いは次第に深められ、納得のいく答えに出会いたいと模索し、師を求めます。まさに生きがいを求め、入り口に立った瞬間と言えましょう。
 今から、二千五百年前にインドでお生まれになったお釈迦様も、四苦八苦という、思い通りにならない生老病死に悩み、解決の言葉を求めて、出家をなさいました。そして菩提樹の下でさとりを得られました。現実から逃げることなく、全てをありのまま受け止め、認め、あきらかに見て、道理にうなずき、平穏な心に至られました。
 お釈迦様は道理(法・真実)とは無常と縁起だと、このキーワードを私たちに残してくださったのです。
 無常とは全ては移り変わるということです。そんな中にあって、今を頂いているこのいのち。縁起とは全ては縁によって起こるということです。全てのご縁が整って、今の一息一息を頂いています。この無常と縁起のまことが私を一番深いところで支えてくださっていたのです。これがいのちの意味の発見です。

 人間の終の願いを 夫婦におかず
 親子におかず 天地におく
 ― 館山一子 詠 ―