掲示板の言葉
2023年 冬
法語
手を合わせ 仏さまを 拝むとき わたしのツノを 知らされる
作者
波北彰真 師『法語カレンダー令和四年九月』真宗教団連合より
あじわい
私のあたまに つのがあった
つきあたって折れてわかった
(榎本榮一師『法語カレンダー平成十六年五月』真宗教団連合より)
『つの』にふれた二つの法語がありました。
「鬼でもあるまいし。私は人間なので頭に『つの』などはえてません」と、思います。
しかし、もし私の頭に『つの』がはえていても、目をぐっとあげたところで、やはり私の頭の上の『つの』を自分で見て取ることは出来ません。私のことを一番知っているはずの私が、一番私を分かることが出来ないのです。ましてや、そんな鋭利な「つの」を頭の上にのせて、「こんにちは」などと頭を下げたら、「おっと危ない、突き刺さるところでしたよ」、と目の前の人に驚かれるでしょう。そんな無意識の事故も起こりかねないものです。
私自身が私の『つの』に気づかされるのは、仏さまのひかりに照らされ、自分の影に『つの』が映る時。または、つきあたって折れてわかった時でしょうか。いずれにしても自分だけでは気づけないということを教えて頂きます。
平成十六年の法語カレンダーの解説で、引用された榎本師の『群生海』での続きの言葉もふまえて、前副住職が次のように筆をよせています。
「つのを出して、折れては気づく自分のつの。複雑に発光する人間の心の光。どちらも「群生海」を生きる命の、生きてあるあかしのようなものに思えてならないのです」と。
『つの』があるからいけない、『つの』は取り除かないといけない、ということでは無いようです。なぜなら、取り除くことなど出来ないのがそのままの私の姿なのですから。また、前副住職は親鸞聖人の『唯信鈔文意』より次のお言葉をひいています。
「すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたもうをさきとし、むねとするなり。」
巻頭言は最終回となります。来春より誌面を変えて心に響く法語をまたどこかでご紹介出来ればと思います。